自分で選んだ仕事やパートナーや進路についてしんどい、疲れた、嫌い、辞めたいなど愚痴を言うと「でもそれって自分で選んだ道なんだから自分が悪い」みたいに返してくる人が嫌いという話。
正論を言ってる俺・私、正しいことを言ってるだけって思ってるかもしれないけど私からすればただ思いやりのなく他人の気持ちを理解できないコミュ障としか思えない。
自分で選んだんだから自分が悪いんじゃないみたいな事言われたら
え?なんで自分で選んだことに不満があったら文句を言えないの?愚痴ってはいけないの?自分で選んだから辛いことがある、思うようにならなくて辞めたくなる時がったり迷ったりするんじゃないのって思う。
自分が選んだ道であっても、その道を選ぶことで周りに危害が及ぶわけでもないなら愚痴ぐらい言ってもいいでしょうという考え。
だって自分で選んだ道でしょうって返してくる人は、人生で選んだものが必ず成功するという考え方なのでしょうか。
むしろ選んだからこそ悩むし愚痴も言いたくなる、もしかして間違ってたのかなって感じるわけなんだから、自分で選んだ道だから自分だけが自分の道にとやかく言える権利をも持っているとも私は思っている。
もちろんその愚痴やら不平不満を言う加減にもよるけどね。
自分で選んだ仕事だから文句を言えないという考えって何?私はロボットなの?
例えば自分で選んだ仕事の愚痴を言って、自分で選んだ仕事でしょうと返された場合。
もちろん仕事でなくても結婚相手やパートナーや進路や、買った物に対してでもいいけどひとまず仕事について言われたとする。
責任感がないという捉え方
この考え方は、個人の自己決定権を強調します。自分で仕事を選び、その選択に従事した結果、選んだ道に対する責任を自分で負うべきだという視点が含まれる。
文句を言う代わりに問題解決に集中し、向上心や忍耐力を発揮するべき、愚痴ってる場合じゃないんじゃない?って言いう意味で言ってきている。
正論ではある。
努力不足という捉え方
選んだ仕事やキャリアについて、その結果や困難に対して責任を負い改善するために努力していかなければならない。
自己成長と適応のために、選んだ仕事やキャリアに対する困難や苦境はは自己成長や適応の機会として捉えられます。
こういったネガティブな状況に対処し、スキルや経験を磨くための努力を払うべきだと。
正論ではあるけど正しい事が人を苦しめることもある
確かに、正論であることが、特定の状況や人にとって苦痛や困難を引き起こすことがあります。それは、個人の状況、背景、精神的な健康、外部の要因、社会的な圧力など、さまざまな要因に依存します。以下にいくつかの例を挙げてみましょう:
- 環境の過酷さ: 一部の仕事環境は非常に過酷で、身体的または精神的な健康に害を及ぼすことがあります。このような状況では、正論に従って責任を負うことが、個人にとって苦痛や困難をもたらす可能性があります。
- 社会的圧力: 社会や家庭からの期待や圧力が、正しい選択と個人の幸福との間で矛盾を生むことがあります。この場合、正論に従うことが社会的な受け入れや評価に関連し、個人に対するプレッシャーとストレスをもたらすことがあります。
- 心理的な健康: 一部の人々は、仕事の困難さや選択に対して感じるストレスや焦燥が、精神的な健康に悪影響を及ぼすことがあります。このような場合、正論に従って自己決定権を行使することが、さらなる苦痛をもたらす可能性があります。
正論としての自己決定権や自己責任を強調することが、個人の幸福を損なうことがあるということ。
そのため、適切なサポート、理解、およびフレキシビリティが必要であり、時には選択肢を再評価することが適切かもしれません。
その人のメンタル面や環境的状況や感情を尊重し、健康と幸福を最優先に考えて受け答えするのが大事。
時に正論は責めてるだけ、思いやりのない言葉でしかない
結局は思いやりのない人間は嫌われます。
私が今の仕事が辛くて大変だと愚痴を言ったらあなたが自分で選んだ仕事でしょなんて言われたら吐き出したところから追い風が来て余計に精神的に追い詰められる。
正論は正しい事であるが人とのコミュニケーションにおいて必ずしも正しいとは限らない。
相手を追い詰めたり、逃げ場をなくすような発言にも聞こえるのでこういったことを言ってくる人とは私は関わらないようにしている。
思いやりのない人間と話してても私のことを大切に思ってくれていないなら話してても一緒にいても自分が辛いだけなので。
